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ぞうブロ~ぞうべいのたわごと

妄想を武器に現実と闘う、不惑のエンジニアのブログ

カルト宗教の記憶 見えないものを見ようとして

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全然大した話じゃないし、望遠鏡を覗き込んだわけでもないけど、僕にもカルト宗教に関わった、ほろ苦く不思議な記憶がある。

あれは小学三、四年生の頃。

母親の親友だと言うDさんに会う日が続いた。

会うのは決まって、母、Dさん、僕の三人。

場所は、僕の家だったり、Dさんの家だったり。

その前からもDさんとは付き合いがあり、ちょくちょく家に来てて、遊んでもらっていた。

母からは、高校時代一番仲が良かった人だと聞かされた。

でもこの頃は、ほぼ毎週、いやもっと頻繁だった記憶がある。今でもDさんの苗字をはっきり覚えているくらいだから。

 

その日も家にやってきたDさん。

母と何やら話し込んだ後、仏壇の前に座るように言い出した。母は僕に来るように言った。

和室の仏壇の前に座ると、Dさんは優しく言った。

「あそこの仏さんの隣…何か明るい、優しいものが、見えるでしょう?」

指さされたのは、位牌の右隣の空間。そこには薄暗い金色の壁しかなかった。しかしDさんは続けた。

「見える人には、見えるのよ…あなたは、見えるはずよ…」

母が続いた。

「この子も、見えるはずなんやけど…」

 

夕暮れの薄暗い和室。初夏の生温かい空気。

不気味すぎる二人の笑顔。永遠にも思えた数秒間の沈黙。

何かおかしいぞ。僕は怖くなった。そして直感した。ここで、え?何も見えないよ?と言うと、物凄く恐ろしいことになる。

ボンクラ小学生の僕でも、さすがに理解できた。

そしてこう思った。なぜ見えないんだ。見えない自分が間違ってるんだ。

だって母が見えるはずだと言ってるんだから。Dさんの期待を裏切ることになる。母に恥をかかせることになる。

何か見えないか、改めて必死に目を凝らしたけど、相変わらず何も見えない。けど、なんだか、なにか見えない気がしないでもない気がしないでもない。

そして僕は言った。

嘘だとバレないように、それなりに迫真の演技で。

「うん…何か、明るいものが、いるような気がする…」

するとDさんは、母と顔を見合わせ、ニターっと満面の笑みを浮かべた。

「そう…やっぱりあなたにも、見えるのね…よかったわ…」

大粒の嫌な汗が、背中を流れ落ちた。

あのなんとも言えない不気味な瞬間は、今でも忘れられない。

 

その後も何度か、母に、Dさんの家に連れていかれた。

Dさんは紫っぽい派手な法被?を着て、でっかい数珠を手首に付けていた。

デカくて派手な、仏壇もどきの謎の飾りが、部屋にあったことだけ覚えている。

そこでも僕はまた、聞かれた。

「あそこに何かいらっしゃるのが見える?」

そして前と同じように答えた。

「は…はい、見える気がします」

何も見えないよ。早く終わらないかな。そう思ってたのは覚えている。

 

それが2,3ヶ月ほど続いた。

そしてある時、パタっと止んだ。

「今日はDさんのとこに行かないの?」

ふと僕が言うと、母はピシャリと言った。

「その人のことを、話してはダメ!」

(え?なんで?)

でも、大人の事情を察した僕は、それ以上聞かなかった。

と言うより、母のあまりの剣幕に、何も聞けなかった。

そして二度と、Dさんの話をすることはなかった。

 

あれは、何だったのか。

Dさんはカルト宗教の信者だったのか、もしかしたら教祖だったのか。今でも分からない。

案外、まともな宗教だったのかもしれない。

だけど、Dさんの眼鏡の奥の目が、完全に座ってて、ちょっと怖かったのは覚えている。

 

今にして思うと、当時の母は、少し病んでいたのかもしれない。

三人目の妹が産まれ、僕達三人の子育てに加え、平日はパート、土日は百姓仕事に忙殺される日々。

父も帰りが遅く、そんなに気が利く方でもなかったので、父と母は毎晩喧嘩ばかりしていた。

その度に僕達兄弟は、自分の部屋に避難してた記憶がある。

こんな辛い毎日。いつになったら、楽になるのか。そう思ってたのかもしれない。

自分も子供を持ち、その気持ちが少し分かるようになった気がする。

そんな時、かねてからの親友Dさんに、気持ちが楽になるよだなんて、心の隙間に、ふっと入ってこられたのではないか。

 

僕はDさんのことも母のことも、責める気なんて全く無い。宗教を全否定することもない。当時も今もだ。

誰にでも起こりうることだし、Dさんはもちろん、母も、それで気持ちが救われたこともあったのだろう。生きるということは、とても大変なのだから。

もっとも、深入りする前に、母が目を覚ましてくれたから、こうやってネタにできるわけで。

もし仮に、母がそのまま熱心な信者になっていたら。当時の僕には、抗う術はなかっただろう。

 

でも、心のどこかでは引っかかっていた。

本当に何もいなかったのか。大人になれば見えるんじゃないのか。もしかしたら母には見えていたんじゃないのか。

大人になってから。子供ができた最近。仏壇にお供え物をするとき、あの日言われた場所に何か見えないか、ふと目を凝らしたことが何度かあった。

やはり、何も見えなかった。仏さまのお顔の隣にはただ、金色の壁しかなかった。

あの時見たのよりは、心なしか明るい金色だった。

ふと目を上げた。

「馬鹿野郎。何もいないわ」

「そんなもん、信じるな」

仏壇の上に飾られた祖父と、祖父の弟さんの遺影が、そう微笑んでいるように見えた。

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宗教が全て悪いとは思わない。宗教で人が救われるのは事実だ。

勿論、人の弱みや不安につけこみ金を巻き上げるカルト宗教は、もれなく撲滅すべきだ。

人を救う宗教ではなく、人を壊す詐欺なのだから。

 

だけど思う。

神様や仏様に頼ってばかりではいけない。

他人を当てにし、魂を差し出してはいけない。

何でもかんでも、人のせい環境のせいにしてはいけない。

自分でなんとか頑張るしかないのだ。

カルトにはまり、壊されるのも、自分のせい。

そのせいで人様を傷つけるなんて論外。

大体、神様仏様もお忙しいはず。全ての願いなんて聞いてられないのだから。