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ぞうブロ~ぞうべいのたわごと

妄想を武器に現実と闘う、不惑のエンジニアのブログ

理系、工学部はやめておけ。エンジニアは大変だ。それでも今役に立っている、たった1つのこと。ver4.1

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理系は安定している。手に職がつく。なにより日本は世界に誇る技術立国だ。これからの日本の将来を担う、革新的新技術を開発し日本の発展に貢献し、大きな富を得たい。

そう考えて、工学部、エンジニアを志す諸君は多いことだろう。

かつて、私もそうだった。しかし、率直に言おう。やめたほうがよい。

 

なぜ、工学部に進んだのか。大学時代の自堕落な生活。研究室での挫折。そして大学院中退。

高校時代、現代文と英語と数学と地理歴史が好き。古文と理科は嫌い。特に物理と理論・無機化学は、身の毛がよだつほど大嫌いだった私。

できないものからはそっと離れればいいのに、できないことから逃げるのは恥だ、できないからこそチャレンジしようという意味不明な使命感と意地に取りつかれ、さらに「理系から文系はいつでもいける。だが、文系から理系は無理だ」という謎の「理系オシ」に感銘を受けて、物理化学を選択し理系を志すという最初の愚行を犯す。

苛烈を極めた受験勉強を経て、第一志望に撃沈し、ノイローゼと偏頭痛に悩まされながら一浪し、奇跡的に受かっていた防衛医大を「もうこれ以上しんどい思いはしたくない。モテたいデートしたい遊びたい!」と蹴り、何を血迷ったか、某大学の工学部に入学。

センター試験のボーダーやら受験科目とかその辺の事情もあり、何より物理が大嫌いなので、工学部の中でも偏差値の低く入りやすい化学系学科を選択した。正直に告白すると、一人暮らしを許される国公立大学で、その自由な雰囲気に憧れていた。

今思うと、防衛医大にいき、数年の厳しい鍛錬を経て医者になるほうが遥かにモテそうなのだが、当時のノイローゼの19歳の浪人芋野郎には正常な判断ができず、一時の快楽のため逃げに走ってしまったのだ。逃げ時を間違えるという、人生でもトップクラスの愚行である。

 

「化学系なので、他学科よりも多少かわいい女の子もいるだろう」という淡い期待は、入学初日にもろくも崩れ去る。

クラス配属の初日、目に飛び込んできたのは、大半のむさくるしい陰キャが自己紹介代わりにセンター試験の点数を報告しあう光景。金髪やドレッドなどぶっとんだ陽キャも少数いたが、異彩と輝きを放つ彼らに陰キャの私は怖くて声をかけられない。女性は全体の10%弱。質はともかく、工学部の中ではまだ多いほうなのが救いだが、大切なのは量よりも質なのだ。

ちなみに後述する悪友AとBとは、同じクラスだった。3人ともある意味陰キャというか隠キャで、めったに大学に出没しないこと、野球と麻雀が好きなこと、化学への熱い志がないことの3点で、共通していた。

 

周囲の学部では、男女比はほぼ1:1の印象。実際どうだか知らないが少なくとも工学部よりはどこも多い。同じ理系でも、薬学部や農学部では女性比率は高い。文系学部はいわずもがな。合コンよろしく、花見だ新歓だ鴨川ダイブだと連日連夜のパーリナイ

一方、私たちのクラス(約50人)では、新入生歓迎会と称し、教室にオレンジジュースとクソまずいオードブルが並べられ、教授たちも交えて立食パーテー

「あの高名な〇〇化学の世界的権威、●●教授と話ができる!」

「私、●●教授の下で、有機化学を勉強したいんです!」

とばかりに、見ず知らずのオジサンを陰キャたちが取り囲む。

学部間格差がここまでとは…とショックを隠し切れず、私はオレンジジュースを一気に飲み干し紙コップを握りつぶし、開始5分で教室を出た。

 

なにも同じ大学に活路を見出さなくてもよい。むしろ、近場で彼女を作ってしまうと、その後もめたとき非常に面倒だ。周囲には女子大が山ほどあるではないか。そして出会いは星の数ほどある。バイトにサークル、イベントに出会い系サイト。

大体、お前は大学を何だと思っているのだ。キャバクラか何かと勘違いしてるのではないか。学問や研究を舐めているのではないか。学費を出してくれる親に謝れ。ついでに大学にも謝れ。たくさんの厳しいご指摘を頂くであろう。

それに関しては、まったく返す言葉もない。しかし、技術大国・日本の将来を担う年頃の健康な男性にとって、共にキャンパスライフを過ごすのがかわいいJDかむさい陰キャかでは、天と地ほどのモチベーションの差があることもまた、真実であろう。

 

そんな「おと工学部」「おり工学部」に絶望し、燃え尽き症候群の私はろくに大学にも顔を出さず、たまに出席すると「はぐれメタルがきた!」とどよめきをもって迎えられる始末。

時間の流れがどこか緩やかな京都の街で、酒におぼれ、草野球と麻雀に明け暮れる自堕落な毎日。こんなことなら工学部なんか来なければよかった。今からでもやり直したい。かつて迷っていた医学部に入り直そう。防衛医大は21歳までという年齢制限のため断念したが、調べると学士入学で編入できる国公立の大学もいくつかある。しかし、まず第一に、プラス四年の学費を払える金はない。それ以上に、ぬるま湯にどっぷり浸かり、堕落しきった日々を送るだけの自分には、やってやろうという気概などなかった。たとえ金があったとしても、何も成し遂げられないことは明白だった。

人生は何度でもやり直せるなんて、嘘だ。当時は何も努力せず、ただ悲嘆にくれ、ダラダラ遊んでいた。

 

それでも、バイト先の塾講師・家庭教師では、それなりに人気を博していたと信じている私。生徒のJKにもモテモテだと勘違いしていたので、「もうこのまま生きていければ最高だよな」と思っていたが、幸せな時間は長くは続かなかった。

大体JKという生き物は、一度は、若く、知的で、イケメンの先生に憧れを抱くものである。私には「イケメン」以外の要素がそろっていた。若く痴的な陰キャだったのだから。まして年齢を重ねれば、ただの陰キャの痴漢候補生おじさんだ。当時私の赤面ものの痛い授業をちゃんと聞いてくれた生徒たちには、心より感謝申し上げたい。

 

3回生になり、実験が忙しくなる。他学部では就活が本格化。

しかし、京都の街を漂う蜃気楼かクラゲのように、自堕落な日々におぼれていた私は、わずか1年後、社会の荒波にもまれる自分の姿が想像できず、恐ろしさのあまり大学院に進むことを決意。

同級生の中には、大手広告代理店や総合商社、マスコミ、外資など、化学の道をきっぱり捨て、華やかな世界に就職していく聡明な人間もちらほらいた。理由は簡単だ。給料がいいから。モテるから。私も考えないではなかった。しかし心のどこかで、工学部から学卒で文系就職する人間のことを、金と女に目がくらんだ奴だ、逃げだと、蔑んでいた。しかし今思うと、それは陰キャの陽キャに対する、嫉妬であった。そもそも就職が怖くて逃げていたのは、彼らではなく、私だった。

 

当時の私は、ちょっと本気を出せばなんでもできると、思っていた。

実際には、何もできないのにだ。

 

優秀なAと奇跡的に同じ研究室に配属され、超絶付け焼刃勉強の末、奇跡的に院試に合格。就活にいそしむ他学部の人間、院試に落ちて学卒で就活する人間を横目に、残り2年、モラトリアム期間が延長されたと、何も知らなかった私は喜んだ。

しかし。そのような半端な志で通用するほど、研究の世界は甘くなかった。

 

私が進んだのは、学科の中でも成績が良くないと入れない人気の研究室だった。私みたいな人数調整でおまけで入った人間とは違い、みな有機合成化学者を志してきた精鋭ばかり。当然、とても優秀。まじめ。おまけにナイスガイ。ちょっと、いやだいぶ個性的ではあったけれど。

特に当時の助手の先生は、研究の能力はもちろんのこと、人間的にも、本当に凄い人だった。今でも、出会った人たちの中で文句なくナンバーワンだ。この人たちが実際日本を技術大国たらしめていくことだろう。ヨコシマで不純な動機しかない塵芥のような自分がいる場所ではない。活躍できるときといえば研究室対抗のソフトボール大会を題材にした、クソくだらないスポーツ新聞を発行するときくらい。

 

ただでさえ幻滅しかけていた有機化学をますます嫌いになり、毎日遅くまでわけのわからない液体と粉を混ぜ混ぜして実験をしないといけない。必然、落ちこぼれになっていく。ますます辛くなる。就活は、教授の推薦がないと、行きたいところを自分で受けることさえできない。教授がカードを持っていて「君は優秀だから大手のココ」「君はそうじゃないからココ」と振り分けていく。それに逆らって勝手に就活をしたのもマイナスと受け取られた。大好きだった塾講師のバイトは、研究の時間の邪魔ということで辞めざるを得なかった。

 

いい企業に入るために理系の大学院に入ったはずなのに、エントリーすることすらできない。

そんな毎日に絶望し、引きこもりになった私。

早い話、ついていけず落ちこぼれた。人生初の体験だった。

 

もはや何がやりたいのかわからなくなってしまった私は、自動車、タイヤ、ガラス、薬、カメラ、ビール、カルピスなど種々のメーカーから、新聞社、はては国家公務員に至るまで、教授の推薦もなしでまさに文字通りやみくもに無鉄砲に片っ端から応募した。しかし当然ながら、行く先々で何も考えてない胸の内を見透かされ、そして隠し切れない負のオーラを嗅ぎつけられ、撃沈につぐ撃沈。   

 

当時の助手の先生や先輩、同級生たちは、最後までこんな私を気にかけてくれ、なんとか立ち直らせようとしてくれた。今でも本当に頭が上がらない。

 

特に先ほどの助手の先生。引きこもっていた私の家まで、わざわざ来てくれた。今でも冗談抜きで命の恩人だと思っている。本当に本当にすいません、そして今でも感謝してます。しかし。私はついに立ち直れなかった。

 

下宿は引き払われ、片道2時間の通学が続くはずもなく、大学に泊まったり、友人の家を転々とする日々。研究で成果をださないと、就職の面倒は見ない。卒業もさせない。至極当然な通達を受け、一刻も早くこの状況から逃げ出したかった私は、結局M2で大学院を中退することになった。

 

周りの優秀な先輩や同級生は、次々と一流企業に羽ばたいていく。

ビラ配りや、生徒がヤンキーばかりの塾講師など、その日暮らしのフリーターと化していた私には、彼らがたまらなくまぶしく見え、みじめでならなかった。友人の結婚式の二次会に顔を出すことすらできなかった。

 

平日の昼間。今頃一流企業に内定が決まった友達が、修士論文を書き上げるために頑張って実験してることだろう。私はちょうど、日雇いのビラ配りをしていた。腐りきってた私は、携帯で話しながらビラを配ってるのを見られ、金は払わん、もう帰れと通告された。黙って無表情のまま黙って帰るその途中、心の底から情けなくなり、涙が溢れ、本気で死んでしまおうと思った。しかし耐えた。「死ぬ前に、大学院辞めたほうがいいよ。」尊敬する先輩が私に言ってくれた金言を、心の支えにして。

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就職、そして転職。望む望まないにかかわらず、レールを走り続けるしかない。レールから外れると、もっと面倒だから。

そんな私を唯一拾ってくれたのは、東海地方の某中堅自動車部品メーカーだった。

その会社のことは全然知らなかった。国家公務員一種試験の翌週にたまたま会社説明会があったので、リハビリがてら受け、唯一内定をもらっていた。ちなみに国家一種は落ちた。

大学院を中退します、内定くれたのにすみません辞退します、、と愛知まで謝りに行った時。

担当の人事の人は、飯を奢ってくれ、うちでやる気があるなら、一筆書いてくれるなら上に掛け合ってもいいと言ってくれた。私は、自分をクビにした研究室や教授を見返してやりたいと、ありったけの呪詛を書き連ねた。今でもなぜ採用されたのか分からない。内定式には間に合わなかった。

 

正直、テンションが上がる会社ではなかった。愛知には全く縁がなかったし、関西ではその会社の知名度は皆無だった。学卒採用になるので、1浪2留みたいになるのも嫌だった。でも一番嫌だったのは、今思うと無知で恥ずかしい限りだけど、大手自動車メーカーのいわば「下請け」だったこと。そして同じ大学の同級生、そして昔自分よりも勉強が下だった奴らが、その自動車メーカーに内定していたことだった。私のことを風のうわさで聞きつけたのか、「俺の会社の下請けだね」とばかりに、わざわざ電話で自慢してきた奴もいた。

逆転された。悔しい。情けない。もはや当時の自分には、そんなプライドとも呼ぶに値しないプライドしか残っていなかった。

 

しかし、そんな腐ってた私を拾い上げてくれて、なんとか社会人にさせてもらえた、人事の方、そして会社には、今でも感謝している。

 

社会人生活は、築数十年のボロボロの社員寮から始まった。12畳の和室。仕切りなしの2人部屋だった。 

 

入社間もなく、大学の先輩が合コンに呼んでくれた。男性陣は皆、関西の某超有名企業だった。当日、先輩は言った。「どこの会社か聞かれたら、ト◯タって言っとけ。お前の会社の名前は言っても誰も知らんから」綺麗なお姉様に聞かれ、私は言われた通り今年ト◯タに入社したと言った。すると女性の1人が聞いてきた。「ふーん。で同期は何人いるの?」私は固まり、まあたくさん、とだけ答えた。その一言で、きっと嘘がバレたのだろう。女性たちはその後、私に話しかけてこなかった。盛り上がるメンバーを尻目に私は黙って鉛のような飯を食った。針の筵のような数時間だった。人生で最低最悪の合コンだった。

 

その後程なく、研修でそのト◯タに見学に行かされた。ここがお前たちのお客であり、お前らはここの部品屋なんだ。そう言われた気がした。その夜。寝る前、ふと悔しさや情けなさがこみ上げ、布団の中で私は一人涙を流した。相部屋の彼には気づかれていたかもしれない。でも話題にはならなかった。相部屋の彼は本当にいい奴で、その後生涯の友達の一人になった。

 

仕事は、自動車の部品への塗装やめっきのデコレーション技術の開発。要するに技術系採用というやつだ。有機化学とはほとんど関係ないのはどうでもいいとして、給料もそれほど高くないし、なにより女っ気がない。モテない。しかしここでもちっぽけなプライドが邪魔をして、潔く理系から足を洗うことができない。

 

技術系採用といえど、新人に技術なんてない。研修ということで、1年目はのべ半分以上を現場のライン作業員として過ごした。自動車関連の工場は、ジャストインタイムという在庫を持たない生産方式。作りだめができない上、トラブルで出荷できないと顧客の自動車メーカーのラインを止めてしまい、莫大なペナルティーを課せられる。

 

なので現場はピリピリしていた。たまに設計者が工場に呼び出され、現場の責任者に怒られていた。設計は大変だやりたくないと、当時はおぼろげに思っていた。単調でミスの許されない現場仕事。連日足が棒だった。夏は汗で服が真っ白になり、冬の夜は凍てつく寒さだった。

 

何よりきつかったのは、毎週入れ替わる昼夜勤制。夜更かしばかりしてた自堕落な私でも、隔週の夜勤は本当にきつかった。

ライン作業のパートナーはバングラデシュ人。日本語はペラペラでいい人だったが、夜勤で暗闇にいると大きな眼と白い歯しか見えず、何度もビビらされた。ちなみに彼はクリケットの元バングラデシュ代表候補。怪我でクリケットの道は絶たれ、夜勤なのに時給はとても安く、同じバングラ出身の工員たちとルームシェアしていた。

今の夢は、バングラデシュに日本語の学校を作ることだと、大きな眼を輝かせて語ってくれた。しょうもないプライドしかなく、恵まれた環境なのに勝手にいじけていた自分が、心底恥ずかしくなった。シャフィー、君の夢は今叶っているのかな。

 

それでも、恩知らずだった私は「こんな名前も知らない会社、速攻辞めてやる!!俺は弁理士になるんだ!サムライ業でモテるんだ!」と心に誓い、息まいていた。しかし、色々ありつつも居心地がよくなり、ついつい7年もいることに。結局、愛知には大学時代の京都よりも長くいた。弁理士はすぐ諦めた。相変わらず職場に女っ気はなかった。しかし、給料を得て、合コンの味を覚え、仕事も楽しくなり、楽しい同期と出会い、草野球チームではエースで4番でキャプテンになり、のちの奥さんとも知り合うのだから、本当に人生はわからない。

 

その後家の都合もあり、悩んだ挙句、転職した。転職する際、私は本当に悩んだ。7年経ち、あれほど嫌だったこの会社に愛着が湧いていた。下請け云々という当初のつまらない感情は無くなり、カーメーカーのサプライヤーとして、仕事にも誇りを持てるようになっていた。愛知にも慣れ、あれほど嫌いだった味噌カツも好きになった。同期、職場の人たち、お客さん、協力会社の人たち。迷惑ばかりかけたけど、みんなに成長させてもらえたと思っている。

 

現在の私の仕事は、農業機械の設計。またしても理系だ。技術職だ。しかも恐れていた設計の仕事だ。嫌いなものから逃げていたはずなのに、どういうわけか大嫌いな物理で飯を食っている。

図面を書いたり、計算、解析したり。材料力学やら金属の熱処理・加工やら。般若心経のほうがまだ数万倍面白い。化学の知識は、もともとないが全く使っていない。元素記号を見かけることすらなくなった。そもそも設計の経験なんてなかった。キャリアなきキャリア採用だ。

Feといえば当時は有機化学の著名な反応、クロスカップリング反応に使われる安価な次世代触媒、Fe2(acac)3だった。しかし現在扱うのはSS400やSPHC、要するに鉄板である。作るものは目に見えない新物質からトラクターへ。鉄粉から鉄の塊へ。この人生の空回りぶりはまさに鉄板。

 

 

なんとか理系から逃げ出したい。設計なんて嫌だ。分からない。しかし逃げようとしても、これまでの経験は技術職のみ。逃げるどころか設計主担当にさせられ、右も左もわからず馬車馬のように仕事をさせられる日々。

もちろん転職も考えないではない。しかし、急募、未経験者歓迎を謳う会社からのオファーの裏に見える隠し切れないブラックスメルを見るにつけ、今のほうがまだマシだとたじろいでしまう、今日この頃。何よりあの苦しく惨めだった、大学院を中退した頃には、絶対戻りたくない。今どんなにしんどくても、ようやく乗りかかったこのレールから外れるわけにはいかない。

 

一体何のために、あんなに辛く苦しい受験勉強をして選択肢の幅を広げた挙句、わざわざこんな道に進んだのだろう。そもそも手に職がつく技術職という割には、分野がコロコロ変わり、何も蓄積できていない。

私の人生、これでよかったのだろうか。昔酒の席で、ある友人に聞いてみたことがある。その答えは、

「それ以上何も言うな酒が不味くなる涙が出る。それが人生だ。何よりお前の人生には興味がない」。なるほど至言だ。ありがとうございます。

 

ちなみに、中退した研究室でお世話になった助手の先生とは、不思議な縁で、すぐに愛知で再会できた。一人で行くのが恐ろしかったが、後輩が一緒に行きましょうと言ってくれた。今でも年賀状は欠かせない。

さんざん迷惑をかけた先輩や同僚にも、2年ごとに行われる同窓会に恐る恐る参加することで再会できた。徐々に傷やしこりは癒えていった。

そして、辛い記憶にある母校の研究室に行き、因縁の教授に挨拶ができたのは、中退してから9年後。みんなと同じく、笑顔で話しかけてくれた。「お~生きてたか!元気そうやな、今何やってるん?」。一体私は、何を気にしていたんだろう。何を小さいことで悩んでいたんだろう。そう思えるようにさえなっていた。時間は、大抵のことを、洗い流してくれるようだ。

 

 

唯一の収穫とは。理系で頑張る方たちに伝えたいこと。

しかし、そんな中でも、唯一といっていい収穫がある。

大学時代、同じクラスで同じ陰キャとして仲良くなった友人AとB。工学部に進学した自身の決断を呪い、地獄の実験と麻雀にどっぷりつかりながら共に汗と涙を流した間柄。

10年たった今、Aは大手企業に就職するも化学の道をきれいさっぱり捨て去って、ネットビジネスで起業しシャチョサンに。同じくBも化学系の大手企業に就職するも、化学への情熱は消え失せ、今は自分のブログのPV数や広告収入、そして自身の頭髪にしか興味がない。

私をブロガーの世界に引き込んだのは、他でもない彼らである。

「あと10年でリタイアし、リッチなニートになるんだ。アドセンス万歳、Google神万歳」と息巻き、ネットビジネスにいそしむ彼ら。その情熱に感化され、私もこの世界にお邪魔することに。

良かったのか悪かったのか、それはわからない。ちなみに現在の収入は雀の涙。時給換算すると恐ろしいことになるのだが、そんなの関係ない。私は実験や計算は反吐が出るほど嫌いだが駄文を書くのが好きなので、楽ではないが苦にならない。なので私はとても彼らに感謝している。

そもそもこれって工学部や化学と何の関係もないじゃん。大学の友達話じゃん。

という指摘は、すこぶるごもっともなのだが、心にそっと秘めておいてもらいたい。それくらいしか収穫がないのだ。

 

真面目に言うと、私は馬鹿だが、出会う人には本当に恵まれていた。

大学の研究室の先生や先輩同期後輩たち。

前の会社の人たち。今の会社の人たち。

そして悪友たち。ブラック社長のファーストペンギンAと、毛髪が気になるセカンドペンギンB。

そういう人たちと出会えたこと。

これが唯一、そして最大の収穫だ。

 

 

というわけで、真面目に研究者や技術者を志す若者たち。文字通り日本の将来を支えるのは、あなたたちです。心から尊敬しています。色々本当に大変だと思うが、楽しく頑張ってください。

今その世界にいるけどしんどい。そんなあなたへ。逃げることは恥ではない。死ぬ前に辞めましょう。そして勇気を出して変わりましょう。人生何とかなるもんです。