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ぞうブロ~ぞうべいのたわごと

妄想を武器に現実と闘う、不惑のエンジニアのブログ

能登半島地震に思うことをダラダラ自分語りと合わせて

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※はじめに

この文章で一番言いたいことは、本文最後にございます。それまでは長々と自分語りをしておりますのでご了承頂き、それでも暇だし読んでやるかと言う勇気ある方にご一読頂けますと幸甚です。

 

1995年1月17日。阪神大震災のとき、僕は中学生だった。和歌山の実家は震度4。部屋の箪笥が揺れる音で早朝に目覚めた。ニュースで伝わってくる信じられない惨状。オシャレで綺麗な憧れの街神戸が壊滅的な被害を受けたことにショックを受けた。同時に、自衛隊や消防隊、救助に関わっている方々が物凄く格好良かった。将来、こんなときに人様の役に立てる人間になりたい。そう心に誓ったはずだった。その時は。

 

それから4年後。文系から理系は無理だが理系から文系はいけるかもというふんわりした理由で理系を選んだ僕は、一浪の末奇跡的に防衛医大に受かり、あのとき一瞬抱いた夢に大きく近づくはずだった。だけど受験生活で精神を病んでいた僕には、入学後の鍛錬に耐え人様の役に立つ余力は、もはや無かった。ただ一日も早く楽になりたくて、もっと正直に言うと女の子と遊びたくて、折角の防衛医大を蹴り、元々本命だった別大学の工学部に進学した。我が人生に一片の悔いがあるとすれば、この選択を真っ先に挙げるだろう。

案の定大学で目標を見失い、なんとなく就職に有利そうという理由で進学した大学院を中退。当然就活でも連敗し、なんとか拾ってもらった愛知県の自動車部品会社で、車をカッコよくする樹脂パーツの開発に従事する日々が始まった。車にも樹脂パーツにもそんなに興味はなかったけど、ただ自立するためだけに働いた。勿論余裕はなかった。

 

5年目、仕事にも慣れ、この道でやっていく自信もついてきた2011年3月11日。東日本大震災が起こった。愛知は震度4。工場に移動中だった僕は車を停め、ナビ画面のニュースに釘付けになった。

恐ろしい津波が、高級車も大衆車も何もかもを一緒くたに押し流し、ただの鉄の塊にしていく映像を見た時、途方もない無力感に襲われた。自分は一体何のために仕事をしているんだろう。クルマを多少カッコよくしたところで、一体何の意味があるんだろうか。自分の仕事に価値なんてないんじゃないか。連日報道される自衛隊や消防隊の方々。大金を寄付する著名人の方々。そんな眩しい姿を、尊敬しつつも正視できない複雑な気持ち。かつて軍医殿への道を蹴ったことを後悔し、何もできない自分の非力さを恥じた。

どんな仕事であれ、大抵は誰かの役に立っている。世界は誰かの仕事で出来ている。頭では分かっていても、当時は素直にそう思えなかった。もっと人様の役に立ちたい。困っている人を助けたい。そんな都合のいい感情が、まるで期間限定イベントのように甦ってきた。

その一方で、何だかんだで言い訳をして、復興のボランティアにも行かず、結局は会社とコンビニで申し訳程度になけなしの募金をしただけだった。ドヤ顔で復興支援と吹聴するのは承認欲求丸出しみたいでなんだか気恥ずかしかったのもある。結局、当時の僕には、遠くの大災害よりも目の前の飲み会の方が大切だった。まだまだ自分のことで精一杯で、人様のことなんて考えられなかった。むしろ自分を助けて欲しいとすら思っていたかもしれない。

普段は何も考えて無いくせに、災害が起こった時だけ急に正義感に取り憑かれる悪癖。大体、自衛隊や消防隊、医療従事者などのプロフェッショナルの皆様は、普段からこういう時に備え、日々鍛錬されている。ヒーローには、安易にはなれないのだ。そんな気持ちなんて、結局は都合の良い承認欲求、自己満足に過ぎない。今思えば、そんな半端な気持ちで被災地に行き、足手まといや邪魔で迷惑をかけなくて良かったと思う。

 

でも、当時感じた虚無感は、転職するきっかけの一つになった。まあ他にも彼女と婚約破棄したりとか、色々あったんだけど。

そういえば震災の二年後、転職前の有休消化中に、はじめての東北を車で一人旅した。福島、仙台、岩手。心の中では勝手に復興支援のつもりだった。被災地に行き手を合わせた。原発10キロ地点にも行った。皆様は本当に温かかった。牛タンと海の幸、喜多方ラーメンは最高だった。

 

東日本大震災の2年後、農業機械メーカーに転職。車のデコレーションよりも、何というかもっと生活に必要不可欠な、直接役に立つものを作りたいと思ったから。でも実はそれは建前で、本音は場所と給料だった。

現実は、異業種への転職で、慣れるのに必死。役に立つものを作っている実感なんて無い。訳の分からない機械の設計開発、品質問題対応。ここでもまた自分のことで精一杯。人様の役に立ちたいどころか、むしろ自分を助けて欲しい。性懲りも無くまたそんなことを思う日々だった。

 

しかし、辛い仕事にも何とか慣れ、かつて婚約破棄した彼女とよりを戻して結婚し、二人の男の子ができ、気づけば四十路を越えていた。相変わらず心にも財布にも余裕はない。誰かに助けて欲しいのは相変わらず。だけど歳を重ね色々経験し、いろんな人のおかげで、僕もそれなりに大人になれたのかもしれない。過去を後悔したりもしなくなった。というより後悔してる暇が無い。今を全力で生きるしかないのだと。

 

2024年1月1日。能登半島で大地震が起こった。ニュースで伝えられる惨状。帰省して家族みんなで正月を過ごしていた方も多かっただろう。そんな人達を突然無慈悲に襲い、日常を奪い去った恐ろしい大災害。ニュースで報じられる被災地の惨状。今も寒く辛い思いをされている方々を想うと、胸が張り裂けそうになった。

同時に焦りも覚えた。お前はまた、何もしないのかと。思うだけ、言うだけかと。

現場で救助活動に当たっているプロフェッショナルの方々には、心の底から敬意を表する。被災地のことはプロフェッショナルの方々に任せよう。素人が行っても邪魔なだけ。自分は今自分ができることを一生懸命するしかない。自分や家族すら助けられない人が、どうして沢山の被災者を助けられるというのか。でも、どうしても気になってしまう。

大災害発生の翌日。僕は、なけなしの募金をした。なけなしと言っても、飲み会が2,3回できる額。小遣い月3万、住宅ローン残金4600万の僕にとってはなけなしでは無い。昔なら出せなかっただろう。大体募金なんて何に使われるか分からない、そんなことよりローン返そう、飲みたいし、とか言って。でもせずにはいられなかった。

そもそも、俺は募金したぞと公言するのも嫌だった。でもやらない善よりやる偽善。勿論良いふうに思われたいけど、今は正直どう思われてもいい。何より、僕みたいなポンコツでも、ほんのわずかながら、被災地復興の力になれたことがとても嬉しい。被災地のためだけじゃなく、自分のためにもなるお金。これで自分も自分のやることに集中する。だけど、決して忘れない。他の災害と同じように、自分が参らない程度にだけど、心の中に刻み続ける。

 

能登半島地震で被害に遭われた皆様。心よりお見舞い申し上げます。犠牲になってしまった方々。被災地を助けようとして飛行機事故で殉職された海保の5名の皆様。心よりお悔やみ申し上げます。

寒い中、大変なご苦労をなされていると思いますが、災害救助のプロフェッショナル達が沢山おられます。いつか必ず、復興します。皆様の日常、平穏が、一日でも早く戻りますよう、心から願っています。願うことしかできませんが、決して忘れず願います。

落ち着いたら、また遊びに行きます。10年前のように、なぎさドライブウェイを走りに行きます。

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