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ぞうブロ~ぞうべいのたわごと

妄想を武器に現実と闘う、不惑のエンジニアのブログ

中退した研究室から寄付金のハガキが届き、就活とタイの女神の記憶が蘇った。後悔しているたった一つのこと。

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学生時代の研究室から、一葉のハガキが届いた。かつて、自業自得&怨恨中退した研究室。そこでお世話になった教授が定年退官するらしく、祝賀パーティーの案内ハガキだった。

 

会場は京都の高級ホテルの、なんとかの間。通常の飲み会なら4回はできる、バカ高い会費。貴重な土曜日。昼間は著名な先生方のありがたいご講演、夜はご歓談の、一日化学漬けフルコース。

 

今、化学とは1μmも縁のない仕事をしている私は、あの金も時間も女っ気もなかった、苦しくも苦しい研究室時代を思い出し、笑顔で欠席に丸をつけた。

 

 

まさかの寄付のお誘い。最初はゼロ回答したけれど。

 

その際、ハガキに気になる一文を見つけた。

どうやら、教授への感謝を込め、餞別がてら寄付金を募っている模様だ。一口千円、暗黙のプレッシャーで五口以上とのことだ。

 

なるほど。身から出た錆とは言え、大学院を惨めに中退し、その後もフリーター生活、社会人生活と、散々辛酸を舐めた私に、まだ寄付金を寄越せとは。

大学・大学院(中退)の奨学金はまだ返済途中なので、むしろ私が寄付して欲しいくらいだ。

 

そう思い、「◯◯口」の欄に力強く「ゼロ」と書いた。そして毛虫でも払いのけるような手つきで、そのハガキをポストに投函した。

 

しかしその後、次々と蘇る研究室時代の思い出に浸りながら、私は少し後悔していた。

こんな大人気ない失礼なことをして、本当に良かったのだろうか… 

 

研究室で教授にお世話になった就活の想い出。

その研究室は、世界的にも素晴らしい成果を上げていて、就職にもめっぽう強いという噂を聞いていたので、学科の中でも人気が高かった。普通に志望を出してたら落ちただろう。

だけど、成績が良くなかった私でも、実験ソルジャー要員として、人数調整で入れてくれた。

合成化学は実験してナンボの分野で、とにかく実験の手足が必要だったからだろう。

 

研究室の人たちは、みんな個性的で、いい人で、優秀だった。

さっさと卒論を出し、大手のモテそうな企業に行ければいいや、くらいにしか考えていなかった私とは、意識が月とスッポンだった。いやスッポンにも失礼だった。

 

致命的なことに、私は何より、実験が大嫌いだった。そして落ちこぼれ、程なく研究室に行かなくなった。

 

当然いい就職先なんて、紹介してくれるわけがない。唯一紹介してくれたのは、従業員が数人の聞いたこともない会社だった。教授の推薦でモテる大手企業へという浅はかな夢は潰えた。

 

仕方ない。推薦なしで、自力で普通に就活しよう。化学はもうこりごりだ。そう思い、ひそかに活動を始めていたが、教授に呼び出された。ろくに研究室に来ず、研究もしない上、私の許可なく勝手に就活をすることは許さない。途中まで選考が進んでいたいくつかの会社は、泣く泣く辞退せざるを得なかった。

 

民間企業がダメなら、公務員試験しかない。そう短絡的に考えた私は、付け焼き刃で勉強した。

研究室を休み、1ヶ月間の勉強。国家一種には二次で落ちたが、京◯府庁には合格した。これでようやく自由になれる。しかし面接で開口一番言われた言葉に、私は衝撃を受けた。

「今日は、勉強、研究、仕事以外の話だけを、して下さい」

 

どんなに馬鹿な私でも、彼の言わんとすることは分かった。大人の事情を察した。あると信じていた枠は、既になかったのだ。

結局、私は見知らぬオッさんと、趣味の野球の話をして帰ってきた。もちろん不合格だった。社会の理不尽さを、嫌というほど感じた。

 

ああ、もうダメだ。

就活もできない。公務員にもなれない。もちろん研究は進まない。

研究で結果を出さないと卒業させない。そう言われ、ついに限界を超えてしまったM2の夏、大学院を中退した。惨めすぎて荷物の引き上げすら行けず、同じ研究室の友人には迷惑をかけてしまった。

 

その後、田舎の実家に帰るわけにもいかず、大学近くのボロアパートに住むことになった。近所の塾講師バイトを二つ掛け持ちし、たまにビラ配りをし、半年間フリーターとして、荒んだ毎日を過ごした。しかし何も事情を知らず、笑顔で先生と呼んでくれる無邪気な生徒たちに救われた。

 

一つの塾は荒れていた。生徒に下宿に押しかけられたり、財布を盗まれたりした。

しかしそので紹介してもらったもう一つの塾では、難関大理系全般オッケーな先生として重宝され、ズタズタになった自信を少し取り戻せた。辞めるときは、たくさんの生徒に手紙をもらい、先生方からも温かい寄せ書きを頂いた。京進常盤校の皆様、あのときのご恩は一生忘れません。

 

公務員試験が終わった翌週、たまたま面接に行けた愛知の会社が学卒扱いで拾ってくれることが決まったのは、内定式も済んだ11月の終わりだった。

 

そしてタイ旅行へ。女神に出会い、全てが吹っ切れた。

 

毎日鬱屈した極貧生活をしていたが、卒業(してないけど)を間近に控えた2月、それまで厳しかった親が初めて、これで卒業旅行に行けと10万円をくれた。そんな風にお金をもらったのは初めてだった。本当にありがたかった。

 

それで私は、めでたく大学院を卒業した友達7人にタイに連れてってもらった。バンコク、アユタヤ、パタヤ。タイはフリーダムだった。人生で初めてクラブなるものに行った。一緒に行った友達が男前だったのもあり、人生で初めて逆ナンされた。日本人というだけでモテた。そう、初めてワールドカップの舞台に立てたのだ。

 

そして今も忘れない、ゴーゴーバーの店員(踊ってるピンクなお姉様では無い方)に惚れ、連絡先を交換した。彼女の名はジラパと言った。片言の英語で、バンコクで何度かデートをした。彼女はカワイイという日本語が好きで、メアドはカワイイジラパ。名は体を表してるよ、と英語で伝えられなかったので、カワイイを連呼した。教わったタイ語はポムラクン。アイラブユーの意味だった。

 

別れの日。彼女は泣いてくれた。私も心で泣き、手紙を書いた。しかしその下書きを友達に見つけられ、帰りの飛行機内で皆の前で朗読されるという恥辱プレイを味わった。

 

あのタイ旅行で、鬱屈していたものがどこかに吹き飛んだ。人生いろんな道があってもいいんだ。だれもお前のことなんか気にしてないし、見てもいない。一人でくよくよしても仕方ない。これから頑張ればいいんだ。そう、開き直れた。

 

社会人になった後もしばらく、彼女とはメールをしていた。

あれから10余年。ジラパちゃんは今、元気でやってるだろうか。

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【タイ】こんな先生に教えられたい! 可愛い女性教師を集めてみた 前編:(*゚∀゚)ゞカガクニュース隊

こんな感じの子でした。正直可愛かった。

 

最後に教授にお会いしたのは、2年前、研究室の後輩の結婚式。

結婚し、なかなか子供を授からないと悩む私達の話を聞いてたわけではないだろうが、テーブルにやってきて、ほろ酔いでおっしゃった。

 

「おお!久しぶりやな、皆元気か!

そうか、結婚したんか!

で子供はまだか?子供はええぞ、もういい歳やろ?はよ作らんと!」

相変わらず、お元気だった。

 

おわりに。寄付金ゼロ口(くち)で後悔しているたった一つのこと。

 

結局、ジラパちゃんに夢中になり、教授の扱いが雑になってしまいました。

一通のハガキが呼び起こしてくれた、沢山の記憶。酸いも甘いも、成功も挫折も、全てが今につながり、自分の糧になっていた。無駄なことなんて、何もなかった。

 

ああ、寄付金0口でハガキを返した自分を恥じたい。

あんなにお世話になった教授に、何て失礼なことをしてしまったんだ。

マイナス100口にしとけばよかったです。

すみません冗談です。ジラパちゃんに免じて、0口のままにしときます。

先生お疲れさまでした。ありがとうございます。感謝しております。タイに赴任しタイ。

 

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