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ぞうブロ~ぞうべいのたわごと

妄想を武器に現実と闘う、不惑のエンジニアのブログ

3.11の記憶。東北一人旅の記憶。

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2011.3.11、14:46。あの時私は、愛知の自動車部品会社にいた。出張で車を運転してて、最初の揺れには気づかなかった。

しかしカーナビの画面を見て驚愕した。東北で震度7!?大津波警報!??

 

思わず車を止めた。映し出されたのは、黒い津波が名取市の家や畑を飲み込み、全てを瓦礫と化していく、衝撃的な映像。

その後も目にした、絶望的なニュースの数々。恐ろしい津波や火災の映像。

そんな中、サッカーのベッカム選手が哀悼のコメントをくれたとのニュースもあった。当時シャルケ04の内田篤人選手もシャツにメッセージを書いてくれた。

被災者でもない私ですら、ありがたくて思わず涙が出た。スーパースターの言葉には、こんなにも力があるんだと思った。

 

 

その翌日、長野県の栄村で震度6強、そのすぐ後にも静岡で震度6強。そして原発が水素爆発。

このまま日本が壊滅してしまうんじゃないか。当時はわりと本気でそう思っていた。

 

なけなしの募金しかできず、ボランティアにも行けず、何の役にも立てない自分が、もどかしくて仕方なかった。

とはいえ、東北は当時、行ったこともない遠くの場所。映像を見ても現実感がなかったのも確かだ。

 

当時私は、車をよりカッコよく見せるためのプラスチックの装飾部品を開発していた。

でも津波や火災で、一様に無惨に破壊された車達を見て、自分の仕事になんの意味があるんだろうと思った。

きっと、どこで何の仕事をしていても、同じような無力感を感じただろう。

今自分にできる目の前の仕事を、一生懸命やるしかない。当時はそんなことも分かっていなかった。

 

いつ何が起こるか分からない。和歌山の家族のことも気になった。 

2年後、生まれ育った関西の農業機械メーカーにUターン転職したのには、そんな理由もあった。

 

震災からちょうど2年後の3月、転職前の有休消化で、私は東北を一人旅した。それまで行ったことのなかった東北に、どうしても行きたかった。

ノープランでひたすら車を走らせ、1日で愛知から800km離れた仙台に到着。

仙台は綺麗な街だった。震災の爪痕は全く分からなかった。

美味しい牛タンを食べた翌日、私はあの日見た、名取市の閖上に向かった。

野次馬、偽善者かもしれない。でも、行かずにはいられなかった。

 

そこには、見渡す限り、何もなかった。

一棟だけ残されたモニュメント的建物と、家々の基礎だけが残り、あとは更地が広がる。

聞こえるのは、鳥の鳴き声と重機の音だけ。

家の跡地には、いくつも花がたむけられていた。じっと手を合わせる人がいた。

前日泊まった仙台市とギャップがありすぎて、少し離れた場所だとは、信じがたかった。

ここに町があった。それがあの日、丸ごと無くなった。あの日起こった恐ろしい出来事を、ようやく肌で理解した。

写真を撮るのも憚られたが、失礼を承知で、数枚撮影させて頂いた。自然に合掌していた。

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翌日、私は福島第一原発に向かった。

当時は原発10km圏内は立入禁止。原発は見えないだろう。

でも、行けるところまで行ってみよう。なんとなく原発に向かい、車で山道をひたすら走った。

桜が咲いていて、とても綺麗だった。

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一方で、途中の道路は、亀裂が走ったままのところもあった。

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そして○○μSv/hと書かれた黒い袋。進むにつれ、その不気味な袋が増えていく。

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気が付くと、原発から10kmだという大熊町にたどり着いた。

 

そこはゴーストタウンだった。またしても静寂。

聞こえるのは雨の音、重機の音、何か動物の鳴き声。

田んぼに黒い壁があった。それは、無数に積み上げられた、あの黒い袋だった。

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その壁の傍らで、白い防護服を着た人と、テレビで見た東京電力の青い作業服を着た人が、雨の中作業をしていた。思わず頭が下がった。

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帰り道、立ち寄った川内村のガソリンスタンドで、店員のおじさんと話した。

愛知から一人旅で来たと言うと、

「こごらは全然景色が違うばい?ハッハッハ」

そう豪快に笑うおじさん。しかし、

「地震はなんとか耐えれたけど、原発で全部ダメになってしまったなあ…」

原発の方角を見て、そう呟く姿に、返す言葉が見つからなかった。

あのおじさんは、今も川内村で元気にしてるだろうか。

帰宅困難地域が全てきれいな姿に戻り、人々がまた笑って暮らせるのは、一体いつになるんだろうか。

そして原発の是非は。無いほうがいいに決まってるけど、必要なら仕方ないのかな、でも自分の近くにくるのはイヤだ。当時の私にはその程度の認識だった。

何も分からなかった。今も分からないままだ。

 

そのあとは、会津の鶴ヶ城、岩手の中尊寺金色堂、郡山のスナックを訪れ、喜多方ラーメンや海鮮丼を食べ、車中泊をしながら新潟、富山を回って帰ってきた。走行距離2200km、消費ガソリン140L。当時のFacebookを見返すとそう書いてあった。今度はもっとゆっくり東北をあちこち回りたい。

 

あの日から10年。やっと10年、もう10年。

被災者の方々、家族や家、大切なものを失った方々にとっては、単なる節目だけではないのだろう。

その痛み、苦しみを、いわば部外者の自分には、分かるなんて軽々しく言えない。

復興などという言葉も、簡単には言えない。

東北だけではない。東日本大震災で影響を受けなかった日本人は、いないと思うから。

当時も今も、自分にできることは、時々思い出し、そっと思いを寄せること。

そして、そのとき自分がすべきことを、一生懸命すること。

今の環境に感謝すること。

自分には、それしかできない。

うまく言葉にできません。皆様の心が、少しでも安らかでありますよう。