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ぞうブロ~ぞうべいのたわごと

妄想を武器に現実と闘う、不惑のエンジニアのブログ

帰れなかったお盆に、寡黙な祖父を思い出す。

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今年で40歳になるが、これまでのお盆で、墓参りやお盆の諸行事を欠かしたことは、一度もなかった。だけど今年は、40歳にして、初めてお盆に帰省しなかった。コロナ、嫁さんの出産準備、身内のいざこざが原因。帰省しようと思えばできたけど、しなかったので、モヤモヤしていた。そんなとき、ふと祖父のことを思いだした。

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先の戦争で、祖父は約8年、戦地に赴いた。中国、旧ビルマ、その他南方戦線。元々寡黙な祖父だったが、祖父から戦争の話を直接聞いたことは、一度もなかった。もちろん聞いてみたかった。だけど、子供心にも、聞いてはいけない気がしていた。

 

祖父は父方だったけど、昔、口の軽い母親が、一つだけポロッと話してくれたことがある。場所はどこか分からないけど、陸軍の軍曹だった祖父は、隊が全滅の危機にさらされ、上官を殴ったそうだ。当時上官に盾突くのは銃殺刑もの。まして殴るなんて。背景は分からないし、その後、隊がどうなったのかも分からない。祖父が戦ったのか、逃げたのかも分からない。ただ一つ確かなのは、祖父が生き抜いて、無事日本に帰ってきたことだ。

祖父が生還しなければ、父も、そして私も、この世にいなかった。

 

相手を殺さなければ、自分が殺される。それが戦争だ。戦地の地獄で、筆舌に尽くしがたい体験をたくさんしてきただろう。祖父が一切話さない以上、それを聞くことは大きなタブーだと思われ、とても聞けなかった。

 

祖父は三兄弟の真ん中だった。

お兄さんは東京帝大卒の秀才だったらしいが、応召され、終戦後シベリアに抑留された。無事生還したが、凍傷で手足の指を数本失った。その後大企業の役員に上り詰め、100歳で亡くなった。大往生だった。

弟さんもまた応召され、中国の重慶の近くで、戦死した。まだ独身で、22歳だった。腹を撃たれ、大層苦しんだそうだ。

兄は東京に出たため、次男だった祖父が、和歌山の実家を継いだ。

 

晩年、祖父の家の本棚には、太平洋戦争関連の書籍がたくさん並んでいた。祖父はそれを、縁側で一人静かに読んでいた。私は大学生になっていたが、迂闊には声をかけられなかった。祖父は何を想っていたのだろう。それは分からない。そして祖父は、何も語らないまま、15年前に亡くなった。91歳だった。

 

実家の仏間には、祖父と弟さんの遺影が、並んで飾られている。

今年は実家に帰れなかった。表情の窺い知れない祖父だったけど、なんて罰当たりな長男だと、怒っているかもしれない。まあしょうがないよと、笑っているかもしれない。だけど、帰れなかった分、いつも以上に想いを馳せることができたのは、よかったと思いたい。

いつもじゃない。8月のこの時期だけ、ご先祖様に想いを馳せる。私にとってお盆は大切な行事。来年はきちんと帰ろうと思う。コロナや諸問題が、それまでに終息してればいいな。

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